写真:水俣病慰霊の碑(撮影 斎藤靖史)
1908-1955 前史
帝国大学を出た化学者、野口遵(したがう)は起業家でもあった。九州山地の豊かな水量に目を付け、水力発電を活用した電気炉で、化学肥料の原料となる炭化カルシウム「カーバイド CaC2」を作る工場を、水俣に建設した。1908年(明治41年)のことだった。カーバイドとは灰色の石ころ状で、水に漬けるとアセチレンガスを出す製品。電灯や乾電池の普及前、明かりを灯す素材として漁師の夜ぶり(夜間の漁)にも使われていた。
続いて野口は、アセチレンガスから、様々な工業製品の原料となる「アセトアルデヒド CH3CHO」の生産を開始する(1932・昭和7年)。アセトアルデヒドは、戦前は航空燃料など軍需物資の生産のために、戦後は急速に普及した塩化ビニール(プラスチック)の可塑剤(かそざい)の原料として、急速に需要が高まり、チッソは工員を「牛馬のように」(野口の言葉)使って大量生産を続けた。その生産過程で触媒として使われたのが水銀だった。化学反応の結果、無機水銀は有機化されメチル水銀となっていた。工場では事故や労働災害も多く、廃棄物の放流もお構いなし。アセチレンガスを出した後のカーバイド残渣(石灰の粉のようなもの)が水俣湾や水俣川にどんどん流されたり、漁業被害を生じたり船の航行の妨げになったりした。しかし無味無臭で水に溶けるメチル水銀による汚染は、まだ気づかれていなかった。
*野口が起業した株式会社名は「日本窒素肥料」。1950年から「新日本窒素肥料」、1965年以降が「チッソ」。現在チッソは患者補償と債務返済に特化した持株会社となり、事業部門は「JNC」という別会社となった。記述は「チッソ」に統一しておく。
1956-1967 被害の発現、漁民と患者の苦難と屈辱
もっと早い時期に発病した人もいるが、水俣病が公式に確認されたのは1956年(昭和31年)とされている。5月1日、当時のチッソ附属病院から水俣保健所に漁村の女児4人の発病が報告された。この日は皮肉にも水俣湾の残渣処理が終わり国際港湾に昇格する日でもあった。しかし、細川病院長が伊藤保健所長に「奇病」の記録を伝えただけで、記者会見などで大々的に発表されたわけではない。対策は「伝染病かも」との憶測から始まり、次第に「水俣湾の魚を食べたことが原因」「その毒はチッソの排水」「排水の中のメチル水銀」・・と絞り込まれていく。
怒りをまず行動に移したのは沿岸漁民だった。1959年(昭和34年)11月、工場の操業停止等を求めて決起大会を行い工場にデモ行進。団交拒否に怒り工場に乱入、警官隊と衝突した。チッソはネコ実験(工場排水を混ぜたエサをネコに与えたところ発病した)で工場排水が原因であることを知っていたのに隠し、水銀除去機能のない浄化装置をつけてこれを大々的にアピール、世間を欺いた。12月30日、患者は屈辱的な「見舞金契約」を結ばされ、紛争は解決したことにされた。
チッソだけでなく、国や県などの行政も水俣病究明に背を向けた。熊本県の副知事は水俣へ行かないことを職員に命じ、厚生省は食品衛生法で漁獲禁止はできないと県に回答した。公式確認の翌年1957年(昭和32年)のことだ。原因物質を巡っては、化学工業会と御用学者が「爆薬説」「アミン説」などをでっちあげ議論を撹乱、1959年(昭和34年)に熊本大学医学部研究班が「有機水銀説」を発表すると、閣議で池田勇人通産大臣が厚生大臣を一喝、水俣食中毒部会は解散に追い込まれた。
公式確認から見舞金契約までの4年間は漁民・患者の闘いが封じられて終わった。原因究明も、排水停止も、患者補償も、その後9年もの間、無策のまま放置された。
新潟水俣病(チッソと同様にアセトアルデヒドを生産していた昭和電工が阿賀野川に排水を流し流域で発生したメチル水銀中毒症)は、この無策の間に起きた被害だった(1965・昭和40年)。2年後の1967年(昭和42年)、新潟の被害者は、熊本より先に原因企業を訴える裁判に踏み切る。熊本で原田正純医師らの診断により、胎児性患者が水俣病と認定されたのもこの時期である。(1962・昭和37年)
1968-1973 チッソの企業責任を問う 患者・家族の果敢な闘い
沈黙を余儀なくされていた患者家族が立ち上がった。その契機は、1968年(昭和43年)に厚生省が「水俣病はチッソ排水の有機水銀による公害」と認めたこと。しかし、チッソはその前に経営上の理由でアセトアルデヒド工程を停止していた。毒物の海洋投棄という犯罪が終わってからの公害認定とはあまりに遅すぎて不届き千万だが、原因は、はっきりした。補償を求めて立ち上がる時がきた。翌1969年(昭和44年)、認定患者と亡くなった患者の遺族たち29所帯112人が、チッソに対する裁判に踏み切った(訴訟派)。他に、訴訟ではなくチッソとの直接交渉に挑む「自主交渉派」がいた。闘いは5年に及んだ。
時はベトナム反戦や大学闘争で政治や制度への批判が国内外で活性化していた時期。支援運動や全国世論も訴訟派と自主交渉派患者の闘いを熱く支えた。ユージンとアイリーン夫妻が水俣に移住して撮影を行なった3年間(1971~74年)もこの時期にあたり、石牟礼文学や土本映画、数々の写真家の作品や演劇など、水俣を伝える多方面の文化も花開いた。
狭い認定基準を打ち破って新たに認定された川本輝夫さん・佐藤武春さんら自主交渉派は、追加提訴の道を選ばず、チッソ東京本社で補償を求める直接交渉の坐り込みを始めた。チッソの社員が自主交渉患者や写真家ユージンらに暴行を加えた「五井事件」(千葉県にあるチッソ五井工場で起きた暴行事件)はチッソの悪名をさらにとどろかせる結果になった。チッソの城下町として繁栄してきた水俣市の世論は「チッソをつぶすな」と、闘う患者に矛をむけた。しかし全国の世論が患者たちの裁判と自主交渉を応援した。
1973年(昭和48年)3月20日、四大公害裁判の最後となった熊本地裁判決はチッソの賠償責任を認め、原告全員への補償を命じた。判決後、訴訟派と自主交渉派は合同で交渉団を結成し、チッソから年金や医療費も含め今後の認定患者にも適用する「補償協定」を勝ち取った。(1973年7月)患者の闘いのベースキャンプとなっていた東京本社前とチッソ水俣工場前の座り込みは、1年9カ月に及んだ。
同じ年、チッソと同種の化学工場がある有明海や山口県徳山に「第三水俣病」が発生している可能性が報道され、水銀パニックとも言える様相を呈したが、十分な調査のないまま封じられた。厚生省は魚介類の水銀暫定基準を総水銀0.4ppm、メチル水銀0.3ppmと決定、魚の摂取量の目安を初めて発表した。
1974-現在 行政の狭い基準に対する未認定患者の長い闘い
協定の調印を済ませ水俣に戻った患者家族や支援者の多くは、これで一段落と考えた。全国からのカンパで建てられた水俣病センター相思社も、当初は戦い終えた患者の日常生活の支えや交流の場となることが目指されていた。しかし、患者勝訴判決以降、水俣と陸続きの地域はもとより、対岸の島々からも新たな認定申請が堰を切ったように続出、未認定患者の代々の闘いが、半世紀後の今日まで続く形となっている。
名乗り出ていなかった潜在被害者の人数は、認定審査の機能が追い付かないほどに達し、1995年(平成7年)村山内閣時代に1万人余が、一時金260万円という補償協定より低水準の解決策を苦渋の中で受諾した。この時期、仕事を求めて都会に移住した「県外患者」も各地で水俣病訴訟を提起したが、村山内閣が進めた和解に応じず訴訟を貫いたチッソ水俣病関西訴訟団が「国と熊本県にも責任」という判決を初めて確定させたことは銘記されねばならない。(最高裁判決 2004・平成16年)
その最高裁判決に背中を押された住民が新たに被害者として名乗りを上げ、次々と認定申請を行い、審査が滞り、再び政治解決が図られるという事態が繰り返されてきた。2009年(平成21年)、水俣病特別措置法が作られ、民主党政権の鳩山内閣時代に7万人の被害者が新たに低額給付で和解した。それでも未だ、法が掲げた「能う限りの救済」には至っていない。
実はチッソは、協定調印から数年後に、患者補償とヘドロ処理・埋め立て事業の債務で倒産寸前となっていた。以来、国と熊本県は、「チッソ支援」のために破格の融資や資金提供を繰り返している。しかし、そのことも要因となって、水俣病認定の門はほとんど閉ざされたままで、他に原因がない健康被害者が水俣病と認められずに多数放置されるという異常な事態が続いている。
なお、水俣病の運動に見られる特徴として、支援者の現地への移住が多いことが挙げられる。裁判や行政不服審査請求の支援、胎児性小児性患者のサポート、資料収集や展示、有機農業や市政参画・・・・水俣の活動は、患者・被害者と移住者も含めた市民の協働で実現している。「水俣条約」の水銀規制を実行化させるための活動(2013・平成25年、水銀規制条約水俣市で調印)から、若かった患者の会による「石川さゆりコンサート」の再演(2017・平成29年)まで、多岐に亘る活動は水俣の活力の高さを示している。他方で市民の中には「水俣病の病名変更」を求める看板を国道沿いに建てるなど、水俣病を忌避するような動きもあり、楽観はできない。
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